Nagizuburogu |
This is Nagi's blog, from Japan. Me: Female/22/Sociology |
私は卒論を書き始めるまで、自分が天皇制についての記述を(多少也とも)するなんて想像もしていなかった。
天皇制については、さまざまな政治思想のひとが侃々諤々の議論で既に大いにやりあっているでしょう。そんな仰々しい制度についてなど、私はぜんぜん興味がないです。
しかし、いくら私の焦点が戦後日本にあっても、世界大戦中の天皇制は、日本のナショナリズムを語る上で絶対に避けて通れない歴史的事象であり!看過することは許されない国民的体験であり!現在の保守言説にも強靭な影響を及ぼす、日本史上最もドラマチックな「大きな物語」であったことを!認めないことには先にすすめない訳です。
(ナショナリズムを調べるにあたり、むろん、保守の言論にも沢山触れた。そこで、「右翼青年」の語彙とその語りというのは、ある一定の人々にとっては抗いがたい吸引力を持つことを知る。「大きな物語」の一部になって、用意された言説を用意された言葉でなぞり、左翼を糾弾し…そこにはある種の高揚と、国体に回収される個の昇華的エクスタシーみたいのがありそうなのです。ちなみに持論だけど、現代ね、政治系の本のタイトルに、ビックリマーク!が付いてたら、それは保守系の言論です。)

天皇制ナショナリズム。はじまりは明治期。
「明治期の日本において西洋化は国民的悲願であった。」
この一文だけで泣けるが、近代国家づくりの過程で、国をまとめあげるナショナリズムは急速に必要とされた。なので明治政府の、「上からの愛国心教育」。
日本ナショナリズムはここが違う。フランス型のナショナリズムなら、市民運動→王権の転覆→民主主義の獲得という順序を踏んで発展したもの。ナショナリズムは、国民解放の道具。
反対に、日本初のナショナリズムは、国家統一の道具として出現する。国体の収斂地点として、急に担ぎ上げられたシンボルが、明治天皇。
わたしは筋肉が好きなので、こう例える。西洋型ナショナリズムは、何世紀にも渡って血を流した結果育まれた、筋トレ筋肉。日本のナショナリズムは、急に必要とされて、天皇制度というドーピングによって急遽こしらえられた、ドーピング筋肉。
ドーピングには、やはり問題がある。
日本は、欧米文明から取り入れた思想、技術、軍隊様式で国力をつける一方で、欧米から国を防衛しなければならない、という矛盾。胸が痛い。
しかしまあ、この思想的ひずみを持ったまま、日本は高度に成長し、列強入り、時は昭和、天皇制ナショナリズムは大東亜帝国を掲げる帝国主義と癒着する事になる。(天皇を頂点、日本国民をその子ども、と捉えた帝国思想から→天皇を頂点、日本国民をその子ども、アジアの民をそのもうちょっと劣った子ども、ととらえた大東亜帝国思想へ。)
一番大事な戦時中のナショナリズムについては、かけない。
それについては、小熊英二の『<民主>と<愛国>』を読めば、もうまるっと雰囲気が分かります。
戦後、マッカーサー登場。
東京裁判を報じる当時の新聞には、「天皇 無罪」の文字。これ初めて見た時、(当時学部1年生)わたしは戦慄した。天皇が裁判にかけられるという発想、新し過ぎる….!
それはそうと、
かつての敵国日本の宗主である天皇を罰しないというGHQの対応に、アメリカ国民は難色を示す。戦時中のアメリカでは、「ドイツのヒトラー、日本の天皇ヒロヒト」という認識だった。
GHQは、日本における天皇の存在を、「アメリカにおけるイエス・キリストと同様である」と本国に説明し、理解を乞う。日本のナショナリズムの強固なバックボーンであった天皇というシンボルは、占領軍の目にも明らかなほど神聖・宗教性をおびる、強大な吸引力を持っていた。この後、天皇は人間宣言。
ところでもちろんですが、GHQが異常に優しかったから、天皇を無罪放免にしたのではない。天皇をアメリカ政権に懐柔することで、日本国民をおとなしく統治したんでしょ。アメリカは、日本の戦後統治を、政治的にすげーうまいことやった。だから原爆落として何十万人死んで、戦後占領して、今も基地があるのにも関わらず、いまの日本はすげーアメリカ好きなんでしょう。だって日本人って、フルボッコにされたアメリカより、自分がフルボッコにした韓国と中国のほうが嫌いなんだよ。
日本とアメリカが歴史上で交差した幾つかの史実と、現在の日本人がアメリカという国に対して持つ「国民感情」。この不均衡は、ほんと凄いですよ。アメリカさんの、戦後日本での立ち回り方は、「本当にうまかった」としか、言いようがない。権力が、権力に見えないんだもの。それが今も、ずっとある。(ところで、日本の主体性は?)
あーね、日本のナショナリズムとか、戦争の話に触れると、心がきゅうきゅうすることがある。日本人は、あの戦争の期間、ある点では決定的に間違っていて、基本的にほとんどいつもださい。どんな権力にも忠実によくなびき(軍部、天皇、マッカーサー、アメリカ軍人)、常に劣等意識に苛まれる。
でも、誰が笑えよう、本に書かれている戦争中の日本のひとは、私と似すぎている。あのときの日本人は、戦争・天皇制に狂喜乱舞した、日本史上にぽつんと突然変異的に現れた狂人集団ではない。昔の人は愚かだったので、戦争をしたそうです、とは到底突き放せない。私はいろいろ、今ね、戦争の事を引き受けなければならないんだろうなぁ、と、心象でいうとそんな風に思っているんです。
どういうポジションをとって、それを「引き受けるか」は分からないけど、やはり右―左のポジション取りを、主張に先行させたくはないね。
天皇制の話だったんだけど
丸山真男は、今から半世紀以上前、「新しいナショナリズムは、旧帝国のそれに匹敵するだけの吸引力を持った新鮮な使命感を鼓舞することに成功しない限り、それは独自の力としての発展を望み得ないだろう」という予言めいた言葉を残している。
予想通り、2011年現在の日本は、世界大戦中のそれに代わるナショナリズムを持ち得ていない。
かつての強大な国家の物語に没入してはロマン主義的情緒に興じる現代人が後を断たないのは、私たちが現代の物語を持っていないことの、まさに証明です。
問いたいのは、懐古的ロマン主義だけがナショナリズムのあり方なのか、ということ。日本のナショナリズムは、天皇制、戦争賛美、アジア嫌悪、ほんとにこれだけ?ナショナリズムは、保守、右翼と呼ばれる思想に占有される、ほんとにそれが限界なの?
そんなかんじのこと。ききたいの。