Nagizuburogu |
This is Nagi's blog, from Japan. Me: Female/22/Sociology |

「性悪でごめんけど、『お腹に赤ちゃんがいます』チャーム見るたびに、私だったら付けないなあと思う。うん。」
と、ツイッターでつぶやいた。
どうやったら攻撃的に響かないか、どうやったら自分の感じているテンションでつぶやけるか、文を何回か推敲までして、つぶやいた。
つづいて、
『不妊の人って少なくないから。あのチャーム見るたび、不妊を自覚させられてるんじゃないかと思う。勝手なんですけど…』
と続けた。
けどこの文をつぶやいた途端、自分の感じている違和感の的確な文章表現から一歩遠のいた気がした。不妊の人もいるんだからあのチャームよくない、っていうのとは全然違う。それが言いたいんじゃない。
あのチャーム、私はいったい何に違和感を感じていたいたんだろう?そして、この手の問題につきまとう緊張感と不自由さは何だ。
わたしは「赤ちゃんがいます」チャームに関する発言を、今までに何度か試みて、やめてきた。すごく発言しずらい問題なんだよあれは。
「ほとんどの女性がいずれ関わる(とされる)」問題なので、どの立場を取るか、だけでステレオタイプにおしこめられてしまう。「スウィーツ妊婦」「フェミ女」とか、そんな類型。ジャッジされるのが怖くて、軽い気持ちで触れられないのかなと思う。妊娠出産経験の無い自分には、発言の「正当性」もない。
とにかく、発言しにくい。妊娠、出産に関する問題には。
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天に唾はくような発言だけど、自分が「その資格を得て」、育児雑誌とか妊婦雑誌を読むようになったら、その世界には独特の、ちょっと部外者から見たら気持ち悪い言説みたいのが広がっているんだろうな、と想像する。「独特の価値体系」が。(普遍的に、どんな分野もそうだと思うけど。)
類似して、女性の美容雑誌なんかの言説にも、「肌の神格化」みたいな世界観があります。お肌に細菌をすりつけないためにファンデーションのパフは毎回使い捨てのコットンにすべきとか、肌にはIQがあるとか言い出したり、肌の擬人化、しかもその柔和で脆いキャラクターの固定化、それとか紫外線を絶対悪に見立てたり….
実際に雑誌よんでるとフムフムってなるんだけど、ちょっと距離を置いて考えてみると、「てゆかこれ凄い事言ってるよなぁ…ただの顔の皮膚なのに…」と、ふと我に返る。男性が「化粧品に1万円かけるってどういうこと?」ていう疑問を持つ感覚。これがたまに呼び戻されてると、「お肌界」の常識を相対化する。
同様に、妊婦雑誌とか育児雑誌の言説にどっぷり浸っていても、それが常識化する。妊娠はすばらしいこと、おめでたいこと、祝福されること、周囲の皆も喜んでうけとめてくれること。それ以外の発想に、ただ「出会わない」。良い悪いじゃなくて。雑誌としても、妊婦に「出会わせる必要の無い情報」がある。
だから、妊婦雑誌に付いてくるチャームを、迷い無く、カバンに付ける。そして高揚。妊娠した事実を、周りの人に知られることをいとわない。(おとしめられたセックスの存在は赤ちゃんに昇華され、もうなに食わぬ顔で)
そんななりゆきで、あのチャームをカバンに着けている女性が多いんじゃないか。不妊の人の気持ちを考える、という発想自体が欠落してるんじゃないか。
というのが、最初の観測。妊娠出産経験もなければ不妊検査経験も無い、どこにも重点の無いわたしの、浅い見解です。
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だけど、先のtwitterでの発言にいろいろリプライをもらって、もうちょっと考えてみる。
ちょっとgoogle先生にきき、あのチャームの実用性を確認する:
1.つわりが一番辛いのにおなかが目立たない妊娠初期に、周囲に喚起する機能
2.出先での不測の事故で、自分が妊婦であることを喚起する機能
3.上の場合、かかりつけの産婦人科を知らせる機能
全くごもっともで、なんだ私が格悪いだけか、と思いました。そういうつもりで妊婦はあれつけてたのか。
しかし、議論は続く。
結論から言って、私たちが持つ違和感の説明は
『妊娠ってさ、「子供が子宮にいる」っていう状態以上にいろんな意味付けがされてるよね。』(リプライより引用)
という点に着地しました。
まず、身体的困難をまわりに知らせる意味で、あのチャームは妊娠初期に必要だとする。
しかしながら身体的な困難は、妊娠初期に限らず、目に見えないことが多い。
内科の病気なんて目に見えないものの方が多い。けどそれを、チャームを付けて「がん患者です」「ペースメーカーをつけています」と周りに宣言するだろうか?
なぜ、妊婦だけが、自分の身体的な困難を知らせる事をいとわないのか。
それは、妊娠による身体的困難は、「幸福」に起因するからです。
妊娠−幸福という社会の認知は、ある種、特権性がありそうだ。
妊娠は社会的に「幸福な」身体的困難につき、妊娠申告チャームは市民権を得ている。それに後押しされるように、妊娠した女性は、自分の「幸福」の積極的なパフォーマンスを始める。
わたしたちの違和感はここから来る。うん。
議論上はすっきりした。だけど、この話にはもうちょっと続きがあります。
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結局、私が上に書き連ねたようなことは、妊娠したひとりの女性の現実と、どう関係があるのか。
私はひとりの妊婦を前に、自分の弁を展開するのか。それは何の意味を持つのか。
わたしの意味する「ジェンダー的にどうなの」っていう論は、一種の感性でしかない。
「いや妊娠したから、チャームつけてるだけ、何でそんな難しい言いがかりつけるの….?!」って妊婦さんに言われたら、私はなにも返せないでしょう。そうだよね、本当に他意は無いのかもしれない。
「妊娠での困難が、社会に祝福されることなら、それは良いことじゃないか。ひとつでも多くの困難が、社会に公言されてサポートされるべきじゃないか」と言ったら、それもごもっともなんだもん。
私の「ジェンダー」っぽい感性と、それ以外の感性とは、全く同価値だ。
ジェンダーの森に入り込んで「これってジェンダー的に、」と語りだした時に、「いやそういうのちょっと興味ないし分かりにくいんですけど…普通に、おめでたいから良くない?」と挟まれた感性が、私をはっとさせた。
さきほどの男性の「化粧に1万円って何のためなの?」という、「お肌界」の常識を相対化させてくれるような発言です。
ジェンダー的な感性をふりかざして弁を尽くしても、生身の人間を分断するだけかもしれない。
だってあなた、妊娠した後の身体的変化って全然リアリティ持って分かってないでしょう。
ホルモンバランス崩れたり、身体がだるかったり、眠気とか、つわりとか、体の鈍さとか、そういうリアリティ全然わかってないでしょう、
って言われたら、私は沈黙するほかない。 のか?
「当事者性の持つ正当性」
について、また今度考えてみたいと思います。
今日はごちゃごちゃしたまま。むむむ….